*n.on.log

The serene rainbow spans after heavy weather.

「鼻糞」の別名を考える

1月7日の夕暮れ
(※写真と本文はまったく関係ありません。)
1月7日の夕暮れ。GR Digital IIIにて撮影。自動的に吐き出すJPEGそのままですが、発色が独特。RAWファイルから近づけようとするもなかなか難しい色。

尾籠な話題であれですが、先日ふと「『鼻糞』と言うけれど、もっとましな呼び方はないのか」と思いました。それでさっそくWikipediaを見てみると、こんな一文が。

鼻糞(はなくそ) - Wikipedia

備考 [編集]
目糞は目やに、耳糞は耳垢と呼ぶのが正しいとされるが、鼻糞には別名がない。糞という言葉を使用することが児童への教育の上で問題があるため、鼻垢などを正式名称にするべきではないかとする意見がある。[要出典]

なるほど。そういう意見が実際にあるかどうかは置いておいて、自分自身のことを考えるとやはり「鼻糞」という言葉を口にするのは抵抗があります。大小便のことを言うにも「トイレ(お手洗い)行ってくる」としか普段表現しない人間です。そりゃ無理だって。

尤も悪態をつくときには「糞!(Shit!)」とは言わない代わりに、「脳味噌入ってないんじゃない?」とか「一回ちょっと死んだほうがいい」(←自分自身に対してよく遣う)とか言うので自分でもこのへんの道徳基準がよく分かりません。
「脳味噌入ってないんじゃない?/脳味噌入れ忘れてる」は我ながら気に入っている罵倒文句です。その絵を想像するとコミカルでいいじゃない?(笑) 怒りもそこそこ和らぎます。

話を戻して「鼻糞」ですが、それならば別称を考えればいいというわけでいくつか考えました。ちなみにWikipediaに書いてある「鼻垢」はちょっと違う気がします。「垢(Wikipedia)」というのは死んではがれ落ちた皮膚(角質)のことを一般に指すので、粘膜が固まった鼻糞の別称にはどうもしっくり来ません。まだ「鼻やに」のほうが近いと思います。

◆鼻くず
◆鼻かす
◆鼻ごみ

この中で一番言いやすい(語呂がいい)のは「鼻かす」でしょうね。「鼻かすがついてるよ」などといった日常的台詞でもしっくりきます。

というわけで、個人的にこれからは「鼻かす」と呼称することに決定!
「鼻紙」は「花紙」とも書きます。それに倣って「花かす」とするとなかなか品がありつつ儚げな様も表していていい感じです。

人生の言葉

人生の言葉
人生の言葉
ISBN: 978-4-284-80041-9
e-hon
bk1
HMV

本屋で見つけて少しパラパラとめくり、気に入ったので購入。1050円。
これが大変良かったです。編集も丁寧なので(余計なものが一切ない。「言葉」に集中できる。)おすすめです。
特に胸に残った言葉を紹介。

考えるままに生きるべきである。
さもないと、生きているままに考えることになる。

- ポール・ブールジェ(1852-1935, フランスの作家、批評家)

考えるがままに生きる、というのは無理のない生き方のはずなのに、なんだかとてつもなく難しいことのように思えます。

雨だれが石を穿(うが)つのは、激しく落ちるからではなく、何度も落ちるからだ。

- ルクレティウス(BC99?-BC55?, 古代ローマの詩人、哲学者)

冴えてる人だなあ、と思ったら紀元前の方ですか…。

悟りとは平気で死ぬことではない。
平気で生きていくことだ。

- 正岡子規(1867-1902, 明治の俳人、歌人)

深い。深すぎる。自分はまだ悟りには至っていないようです。

人生はクローズアップでみると悲劇だが、
ロングショットでみると喜劇だ。

- チャールズ・チャップリン(1889-1977, イギリスの映画俳優)

この人生も、世界の人生も、喜劇にみえるときがくるといい。

一夜にして成功を収めるためには20年かかる。

- エディー・カンター(1882-1964, アメリカのコメディアン、歌手)

にやり、としてしまいました。

人間は醜い、だが人生は美しい。

- ロートレック(1864-1901, フランスの画家)

おそらくは、「人生は美しい」に至るまでにものすごく長い道のりが必要だったのではないか、と思いました。

光は暗闇を追い払う。光を見て、その美しさについて考えよ。一度目を閉じ、再び見える光は最初のものとは違う。
前に見た光はすでにそこにはない。

- レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519, イタリアの画家、彫刻家、建築家)

僕が不思議なのは、こういう感覚が500年の時を経ても変わってない、ということです。失礼ですが「レオ、なんで知ってるの?」という。
一度直接話をしてみたかった。たぶん、なんの説明もいらずに、なんの例えもいらずに、話ができるだろうと思う。「僕思うんですけど、闇の真の姿って光ですよね」「そうそう、闇という光ね」みたいな。
…同時代のやつらがうらやましい。

不遇はナイフのようなものだ。
刃をつかめば手を切るが、柄をつかめば役に立つ。

- ハーマン・メルヴィル(1819-1891, アメリカの作家)

ううむ、素晴らしい。

古いものを喜んではならない。
また、新しいものに魅惑されてはならない。

- ブッダ(生没年不詳, 仏教の開祖)

テクノロジーの発達という進捗とその弊害に悩む現代にこの言葉は鋭く響きますね。「なるほど」と思わずつぶやいてしまいました。

腹が立ったら、何か言ったり、したりする前に十まで数えよ。それでも怒りがおさまらなかったら百まで数えよ。
それでもだめなら千まで数えよ。

- トーマス・ジェファーソン(1743-1826, アメリカの政治家)

問題は、「怒りがおさまるまで数えられるか」ではなく、「数えようと思ったときにはすでに何か言っていた(していた)」ということだと思うのです。そして、「そのときすでに」という無自覚の行動こそ、人間の弱みだと思うのです。僕はこれを完全に、完・全・に・統率したい。その意味で「人間を超えた存在」になりたいと常々思っています。これは真面目な話、自分の人生で超える「べき」壁の一つだと捉えています。これを超えることができなければ、僕が生きた意味の一つはなくなることになるし、人の親になる資格もありません。

人間はみな、自分の見たいものしか見ようとしない。

- カエサル(BC100?-BC44, 古代ローマの政治家、軍人)

今でもそうですよ、と伝えたらカエサルさんは「マジかよ…」と言うのでしょうか。「やっぱり…」と言うのでしょうか。そこに興味がありますが、僕はたぶん後者だと思います。そのあたりの本質は見抜いている人でしょうね。

壁が横に倒れると、それは橋になる。

- アンジェラ・デービス『アンジェラ・デービス自伝』(1944-, アメリカの政治家)

なるほど。高ければ高いほど、遠くへ行けると。

つまり、これが死というものである。
ところで……

- 死の間際の言葉、カーライル(1795-1881, イギリスの評論家、思想家)

すげえ…。続きを聞きたい…。

今日が人生最後の日だとしても、
今日する予定のことをしたいと思うか?
「毎朝自問自答している。ノーの日が続くなら
人生の軌道修正をしなければならない」

- スティーブ・ジョブズ(1955-, アメリカの実業家、アップルCEO)

スティーブかっこよすぎ。

最初の一歩を踏み出しなさい。
階段全体を見る必要はない。
ただ、最初の一段を上りなさい。

- マーティン・ルーサー・キングJr(1929-1968, アメリカの牧師、活動家)

嫌でも目に入ってくる「階段全体」を無視することこそが一番難しいのではないでしょうか。おそらくは一段を上ることよりも。

私たちの問題は人間が生み出したもの。
従って、人間により解決できるのです。
人間社会の中で起こる問題の中で、人間を超えているものはありません。

- ジョン・F・ケネディ(1917-1963, 米国第35代大統領)

なんだかんだ言ったところで、人間のせいですものね。もっと踏み込めば、「自分のせい」。

真の道は一本の綱の上に通じている。その綱は空中に張られているのではなく、地面のすぐ上に張られている。
それは渡って歩くよりは、つまずかせるためのものであるようだ。

- フランツ・カフカ『罪・苦悩・希望・真実についての考察』(1883-1924, チェコの作家)

具体的に考えてみると、にやりとしてしまう味わい深い言葉です。

誰にも見られていないように踊れ。誰にも聞かれていないように歌え。恋をするときは、今まで傷ついたことなどないかのように振舞え。
そして、この世が天国であるかのように生きよ。

- マーク・トゥエイン(1835-1910, アメリカの作家)

何のために? おそらくは自由を得るために。

マイナスをプラスに、不幸を幸せに、涙を笑顔に。まかせておいてください。

- 坂本九(1941-1985, 昭和の歌手)

九さんになら「まかせた!」と言えるところですが、それとは別に「まかせる」ということについてそれはいいものかどうかふと考えてしまいます。自分の歴史上、「まかせた」と心から言ったことはないような気がする。下手したら口にしたことすらないかも…。九さん自身はどうだったんでしょうね。まかせられる人いたのかな。

生きるために食べろ、食べるために生きるな。

- ベンジャミン・フランクリン『プア・リチャードの暦』(1706-1790, アメリカの政治家、科学者)

この本で一番胸に突き刺さった言葉。
自分には「生きるために食べろ」の一言が大きかったです。「生きるために食べろ」ってあなた、「生きろ」っていうのは前提ですか!?みたいな…。生きるのは前提ですか。そうですか…。ちょっと衝撃的でした。
ところで今の時代、「生きるために」食べている人ってどのくらいいるんだろう。予想よりはずっと多いのかもしれない。

100年に一度?

溜まった新聞の切り抜きをスキャニング。
最近の記事で良かったのを紹介。'09年4月23日付の日経新聞の「あすへの話題」、書き手は画家の安野光雅さん。

「100年に一度の不況」

誰が言い出したのか「今回の不況は百年に一度の不況だ」と盛んに言われている。こういった無責任な発言に私たちは非常に弱い。脅かされるだけで、その言い分の根拠がただせないが、百年と言わず、わずか六十年余りさかのぼっただけで、恐るべき敗戦の日がそこにあったではないか。

もし誰もが「百年に一度」を信じているとすれば、その後の日本人がすっかり平和ボケしてしまって、遠因はアメリカだとしても、今日のような不況への抵抗力を失ったのではないかとさえ思われる。

わたしは敗戦後の日本を忘れない。とにかく国土は一面の焼け野原だった。食料はもちろん、衣料もなかった。子どもたちはおなかをすかせ、頭にはシラミが巣くっていた。活気があるのは闇市だけで、希望はあったが、新円切り替えやインフレでお金はなかった。

あの時代と不況と言われている今の世の中をくらべてみるといい。不況だというのに、食料は巷に満ちあふれ、着飾った男女が町を闊歩し、六十年前は米軍の車だけだったのに、売れていないはずの車で道路は渋滞している。テレビは飽食の料理とお笑い番組のない日はない。

校庭に芋を植え、その蔓を食った世代の人間は、「百年に一度の不況」という言葉を疑う。人災を天災に見せかける口実ではないかと勘繰りたくなってくる。

実はつい先日、近所でガマガエルを見た。やはり季節は巡っている。田園は新緑で、わたしの旧友は芋や豆を作り、我が物顔に跳梁する猪や鹿と百年に一度の戦いの中にいる。陶淵明の「帰りなんいざ田園将に蕪れなんとす(※)」を連想する。

※「帰りなんいざ田園将(まさ)に蕪(あ)れなんとす」
陶淵明(とう えんめい)の有名な漢詩、「帰去来の辞」の冒頭部分の一節。
「さあ、もう故郷へ帰ろう/田園は荒れ果てようとしている」といった意。
分かりやすい解説はこちらをどうぞ。

あくまでも「100年に一度の不況」は世界的規模の不況(対象は1929年発の世界恐慌)であるのでしょうが(私の記憶では「100年(一世紀に一度か二度)」と言い出したのはFRBだと思います。)、それならば日本人はそれにならうのではなく、「私たち日本人にとっては、こんなのはまだましな方です、敗戦の日を思い出してください。あの日々に比べれば、私たちには食べ物もあるし、身を覆うものくらいはある。今苦しいのは世界どこも一緒です。こんなのはまだ地獄じゃない、希望をもって解決案を出し合おうじゃありませんか」と言えばいいのです。
こういうちょっとした気の持ちようで将来を見る目は変わると思うのですが、ちょっとしたことだからこそ難しいのでしょうかね。

次のも同じ安野さんの文章。'09年5月7日付の記事から。

「黒猫と人生」

絵を描いていて、うっかり墨を落とすなどの失敗をすることがある。そういうときはあわてないで、たとえばそこに黒い樹を一本描くとか、黒猫が横切る図を描くなどしてごまかすことができる。

ところが、一日くらいおくと、その黒猫に目がいく。目をやるまいと思う。この場所が墨を落とした箇所だと知っているのは自分だけなんだし、そこに黒猫を描いていけない理由もない。まあ第三者にはわからないだろうと納得する。

また一日ぐらいすると、どうもその黒猫が気になる。また数日たって、絵はだんだんと進行し、だいぶんできあがった感じになってくる。それでも黒猫に目がいく。気にしていないようで気にしているな、と自問自答する。そのころには黒猫にしたことを後悔しはじめているのだ。

油絵なら、削り取ればいい。しかし失敗したという自分の記憶は消せない。どうすればいいかという話になるが、表面糊塗(こと)しないほうがよかったと思いはじめ、結局絵は失敗の道をたどる。

絵ができあがると篆刻(てんこく)印を押すことがあるが、一見簡単そうなことでも、逆さに押したりずれたりすることがある。上気しているのである。堂々と描いた絵が篆刻のために水の泡となるかと見える。中国の名画の中にもそんな失敗があるので、「そんなときはどうするのか」と、かの国の篆刻家に聞いたら、押した瞬間が「一期一会だ」と言う。「失敗もまた経過の一こまなのだ」という意味にとれた。失敗は絶対にゆるさない、となると生きていけない。

許す。それはつまるところ人生なのだ。多くのものごとがそうであるように、絵の中もまた人生なのである。

私が思うに、失敗とは奇跡の一つだと思います。思いもよらない結果なのだから。多くの場合、「やりたかったことができなかった」から「失敗」という判断になるのですが、それが「いや待てよ、これはこれでいいではないか」と「奇跡」という価値をそれに与えられるかというところなんだと思います。これはもちろん、産業での機能面ではそうも言っていられないですが、人間関係の中ではこういう見方というのは大事なのではないか、と思います。自分自身で「これも人生」と割り切るのは今の時代難しいので、周りの人が言ってあげるのが大切なのではないでしょうか。

「これなに? 墨落としちゃったの? へえ、おもしろいねえ、まるで黒猫が飛び跳ねてるみたいだ」と。
私自身、人にはそう言えますが、自分にはなかなか言えません。「完璧主義ねえ」とよく言われます。(笑)

樹影

夕闇の百日紅

濃紺に その身渡す 百日紅(さるすべり)
縮み凍みるは 枝か我が手か

うーん、歌って難しいねえ。こういう冬の歌にあえて別の季語をもってくるのは伝統的にはどうなんでしょうね。「百日紅」自体は夏か秋の季語っぽいですが。

これも百日紅。枝に残っているのが実。
この時期、夕焼けがとてもきれいなので、ひさしぶりに公園に撮りに出かけました。

Read the rest of this entry »

焦り度→20焦

→19→20→21→
新成人のみなさん、おめでとう。

なにか書こうかと思ったのですが、私自身「死ぬまで18」と言っている身なので(笑)うまく言えないんですね。
かわりに最近書いた詩を載せておきます。

「日々」

にわか雨の においのような
夏の午前の 陽射しのような

絵に描くほどに鮮やかでない 淡い虹のような
記憶の残り香に触れる 秋の午睡のような

風にふるえる 露草のような
絶え間なくうつろう 水面(みなも)のような

手をのばすほどに遠さを知る 星々のような
いつまでも目にこびりつく 光の軌跡のような

醒めない夢を 見つづけているような
いつかどこかで 見た景色のような

焦るな、と言われても焦っちゃうよねえ。自分の経験から言うと、そういうときははっきり言って焦るしかないです。
今書いていて気づきましたが、「焦る(あせる)」って「焦げる(こげる)」と同じ漢字なんですね。分かるなあ。僕なんて灰になりかけてますよ。焦げるくらい全然どうってことないです。心ゆくまで焦げてください。

20焦? ふふん、まだまだ!