季節のものはできるだけその季節に食べたいのだけど

帆立貝柱のバター醤油焼き
帆立貝柱のバター醤油焼き。
これはボイル済みの帆立を買って焼いただけ。焼いていると油(バター)が跳ねるので気をつけて。醤油は帆立に焦げ目がついてから仕上げにジュワーッとします。最後に青のりを散らすと風味がより豊かになっていいですよ。

最近は季節の食材はできるだけその季節に食べるようにしています。分かりやすくいえば夏野菜は今は控える、ということですね。南半球産のものならいいのかというと、それもフードマイレージの関係でできるだけ買わないようにしています。
ところがこれがものすごく難しい。野菜なんてどれでもいつでも使えるものという5W1Hを完全に無視した消費習慣が身についてしまっている上、挙げ句の果てには「そもそもその旬がいつか分からない」ことが多い。「アスパラガスの旬は?」とか言われても想像でしか答えられません。えーっと、たぶん夏くらい?
普段食べているものの「本当の食べ時」が分からないって、一生物としてはかなりまずいんじゃないかと思うのです。根拠は全くないけど、生存本能的な感覚が鈍ってそう。「食べるべき時・物」が分からないと言うことは「食べざる時・物」も分からないことではないかと。
そんなことを思っている次第。でも実践するのは難しいのですけどね。あぁ、ズッキーニ食いてえ。

ネギトロ
何度か載せていますが、ネギトロ。
鮪(マグロ)は「ネギトロ用」になっているものは使いません。なぜならあれにはサラダオイルが加えられているものが多いから。トロもどきです。
自分流のネギトロは赤身の切り落としとか、ぶつ切りといった比較的安価なものを買ってきて、まずは小間切れに切り、荒く叩いて終わり。鮪はその名の通り「トロ」でもいいですが赤身でも十分美味しいです。むしろ赤身の方が透き通ったルビーのように綺麗すぎなのでおすすめ! たっぷりのネギと(鮪と同量が基本で多少調整はお好みで)、海苔、ワサビ醤油と混ぜ混ぜしてどうぞ。

水菜炒め
水菜炒め。ソーセージが余っていたので加えました。これはオイスターソース炒めですが、味は好きなのでいいと思います。カレー風味とかでもいいでしょうね。
水菜はこれは一束(スーパーなどでパックになっているもの)ですが、火が加わると信じられないくらいかさが減ります。2束とか使っても全然OKだと思います。
水菜にはあっという間に火が通るので最後の仕上げに入れて炒めてください。少しシャキシャキ感を残すと食感も楽しいと思います。

鯛とモッツァレラのサラダ
鯛とモッツァレラのサラダ。
モッツァレラチーズは薄切りにし、鯛も食べやすい大きさに切ってチーズに載せます。塩漬けブラックオリーヴを粗みじんにし散らします。ハーブ岩塩などを振り、オリーヴオイルを仕上げに回しかけます。かなりうまいです。
写真の葉物は人参のヘタを水につけておいて伸びたものを。そういうなにか緑があると彩り華やかで美しいですね。それにしても鯛の桜色は素敵です。

あったか雪だるま
あったか雪だるま。
冬はお風呂に蜜柑を湯船に浮かべて「温泉蜜柑」を食べるのが好きです。焼き蜜柑とか蜜柑鍋とかもあるそうです。

生むべき宿命と、生まれるべき宿命

「あなたが生まれなければ、この世に生まれなかったものがある。」
「あなたが生まれなければ、
この世に生まれなかったものがある。」

昨年の9月に東横線車内で目に留まった広告。
いい広告だと思います。励みになる言葉ではないでしょうか。

ものづくりや芸術方面を生業にしていると、「好きなことを仕事にできていいですね」というような意味合いのことを言われることがあります。確かにそれも一理はあるので「そうですね」と返すことが多いのですが、しっかり考えると「そう簡単な話でもないんですけどね」というのが正直なところです。(笑)

厳密に言えば、「したいから」「好きだから」やっているわけではないのです。
「作らねばならない」「生み出さねばならない」、言ってみれば「責任」なのです。

背負ってしまった以上、生み出す使命がある。それを放棄しては自分が生きている申し開きができない。そういう意識でやっている人が多いのではないでしょうか。(実際にそういう話を誰かとすることはないので分かりませんが。。。)

生むべき宿命。
自分の中には生を受けた「生まれるべき宿命」の子がいる。
「作品」を「子どものよう」と表現しますが、そうではないです。「子ども」なんです。

それは確かに偽りなく「素晴らしいこと」であるのですが、「ものすごく、しんどい」ことでもあります。自分の身を削る以上の痛みを伴う人生。
経験者だから言えますが、実際に身を削るのはこれに比べれば痛みなどないようなものです。身を削る程度、テレビ見ながら耳かきしているようなものです。

だから僕が伝えたいのは、自分の中に「生むべき存在」があるなら、絶対に生んでください。自分も絶対に生み出します。(もっと深いレヴェルの話をすれば、全ての人に「生むべき存在」があるのですが。)
そこから逃げることは出来ません。背負ってしまったものなのです。「ああ、自分は“そう”なんだ…」と諦めてください。><

そんなことを思った車内広告でした。同じ広告を僕Verで作るとすれば、

「あなたはそれを、
生み出さねばならない。」

「ハァ?」とか言われそうですね。(笑)

GR-D IIIで撮る夕焼け

1月14日
1月14日。
うまく時間帯に気づけば夕方の空を撮ってます。

1月15日
1月15日。

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「鼻糞」の別名を考える

1月7日の夕暮れ
(※写真と本文はまったく関係ありません。)
1月7日の夕暮れ。GR Digital IIIにて撮影。自動的に吐き出すJPEGそのままですが、発色が独特。RAWファイルから近づけようとするもなかなか難しい色。

尾籠な話題であれですが、先日ふと「『鼻糞』と言うけれど、もっとましな呼び方はないのか」と思いました。それでさっそくWikipediaを見てみると、こんな一文が。

鼻糞(はなくそ) – Wikipedia

備考 [編集]
目糞は目やに、耳糞は耳垢と呼ぶのが正しいとされるが、鼻糞には別名がない。糞という言葉を使用することが児童への教育の上で問題があるため、鼻垢などを正式名称にするべきではないかとする意見がある。[要出典]

なるほど。そういう意見が実際にあるかどうかは置いておいて、自分自身のことを考えるとやはり「鼻糞」という言葉を口にするのは抵抗があります。大小便のことを言うにも「トイレ(お手洗い)行ってくる」としか普段表現しない人間です。そりゃ無理だって。

尤も悪態をつくときには「糞!(Shit!)」とは言わない代わりに、「脳味噌入ってないんじゃない?」とか「一回ちょっと死んだほうがいい」(←自分自身に対してよく遣う)とか言うので自分でもこのへんの道徳基準がよく分かりません。
「脳味噌入ってないんじゃない?/脳味噌入れ忘れてる」は我ながら気に入っている罵倒文句です。その絵を想像するとコミカルでいいじゃない?(笑) 怒りもそこそこ和らぎます。

話を戻して「鼻糞」ですが、それならば別称を考えればいいというわけでいくつか考えました。ちなみにWikipediaに書いてある「鼻垢」はちょっと違う気がします。「垢(Wikipedia)」というのは死んではがれ落ちた皮膚(角質)のことを一般に指すので、粘膜が固まった鼻糞の別称にはどうもしっくり来ません。まだ「鼻やに」のほうが近いと思います。

◆鼻くず
◆鼻かす
◆鼻ごみ

この中で一番言いやすい(語呂がいい)のは「鼻かす」でしょうね。「鼻かすがついてるよ」などといった日常的台詞でもしっくりきます。

というわけで、個人的にこれからは「鼻かす」と呼称することに決定!
「鼻紙」は「花紙」とも書きます。それに倣って「花かす」とするとなかなか品がありつつ儚げな様も表していていい感じです。

ライトブロガーから見たmixiとTwitterの使い道

2009年の日本でホットになったウェブサイトと言えば、一位http://twitter.com/、二位http://www.bing.com/ではないでしょうか。(自分調べ)
Bingは大変気に入っていますが(デフォルトサーチャーを変えてもいいかなと思ってるくらい)、今回はTwitterについて。

日本でmixiは大ヒットしましたが、mixiと同じようなユーザ層をTwitterが獲得するかというと、それは難しいだろうなと思います。そもそもそんな事態になる必要もないし、なってほしくもないのですが。(笑)

mixiが大ヒットした理由を考えてみると、一つは日本の独特な携帯電話市場(製品市場ではなく、その上のサーヴィス市場)、そして携帯電話>PCという人々が若年層にとりわけ多いこと、「クローズな環境(mixi)ならオープンなウェブより安心」といった妄想が少なからず関係したような気がします。専門家ではないので私個人の印象に過ぎませんが…。
私はmixiにはまったく馴染めませんでした。未だ自分にとってのmixiの存在意義を見出せずにいます。ブログやっていると、ほんとにmixiに書くネタ(話題)がないんです! 内輪ネタというのは持ち合わせていないので、ブログとの差別化が図れませんでした。将来50mm厚防弾ガラス張りのオールスケルトンな家に住みたいと思っているような人間なので話すことは自分から話すし、話さないことは最初から話さない。見たければ見ればいいし、見たくなければ見なければいい。その中に「この人には話すけどこの人には話さない、この人には見せるけどこの人には見せない、mixiには書くけどブログには書かない」という区別はないのです。自分で書いててもよく分からない例え話です!
それでもアカウントを残しているのは、mixi内でのみ連絡可能な人があまりに多いのでその窓口として置いてある、という感じです。(そろそろそれも切ってもいいかもしれない、と思い始めてもいるのですが、正直なところ。)
今までアカウントは公開していませんでしたが、その意味もないので書いておきます。

http://mixi.jp/show_profile.pl?id=4493560
mixi日記はこのブログを読み込ませているだけですし、「友人まで公開」とかそういうことは一切していないのでマイミクの意味はありません。マイミクの人数を増やしたい、とかそういう目的があればどうぞ。(笑)

根っからのWorldWideWebな頭になっている人間からするとmixiというのは大変使い道に悩む媒体なのですが、Twitterも別な意味で使い道が難しい媒体に思えます。

http://twitter.com/ichijo
Twitterというのは「小鳥のつぶやき」をモティーフにした登録型ウェブサイトで、140字(全角/半角問わず)という短いセンテンスでつぶやいていくサイトです。
私が始めたのは2008年後半からですが、しばらくの間はTwitterの使い道に困りました。なにをつぶやくのかが分からない。「ブログに記事に書くまでもないたわいもないこと」を書くにも、わざわざPCの前に座ってつぶやくというのも面倒くさい。
それが少し変わったのがiPhoneを手にしてから。Twitter用のクライアントアプリケーションがたくさんAppStoreで出ていますが、私はそんなヘヴィなTwitterユーザではないので無料のEchofon(当初の名称はTwitterfon)を使用しています。
これでいつでもどこでもつぶやけるようになったのでTwitterも日常的に使うようになりました。(もちろんiPod touchでもオンラインなら可能。)
# よく知らないのですが、いわゆる携帯電話向けにもTwitterツールがあるらしいです。

Twitterのいいところは、
◆ブログを持っていても書くことがかち合わない。(内容ではなく、文字数などからそもそも書くスタイルが違うから)
◆ユーザがウェブ慣れしている人が多い。(印象としてウェブ・PCリテラシーが基本的に高い人が多い)
◆絵文字(not AA)がない。
◆サーヴィス構造がとてもシンプル。

以上のことから使用している中でストレスになることがほとんどありません。自由気ままに垂れ流しているだけでいいのがそもそもの「つぶやき」ですから、とても気楽です。
mixiだと対象者が限定(=マイミク)されるわけで、彼らをまったく無視したことはなかなか書きにくい。例えば、PCを持っていないマイミクが多い中で「Ubuntu 9.10はどうなんだろ」とか「SSDのTrim対応ってこういうことらしい」とか「けいおん!スキンのためだけにGoogle Chrome使ってる」とか書くのも気が引けるわけです。

ウェブの発展の過渡期でmixiのようなクローズなウェブサーヴィスが隆盛するのは自然な流れですがその先、5年~10年といった中長期的なスパンで見ると立ち位置が難しくなっていくのではないかなぁ、と2006年の登録当時思いましたが、その後mixiは招待制でなくなったりして少しずつ線引きがなくなってきました。あとは携帯電話ユーザの囲い込みでしょうが、あと3年もすればいわゆる「携帯サイト」「PCサイト」の区別などなくなっていると思うので携帯電話向けサイトを基本としたビジネスモデルは難しくなるんじゃないかな、などと予想しています。携帯電話業界の人たちは今後武器になりうるのはその日本中張り巡らされた回線網だけなので、その財産を生かした次のビジネスモデルをさっさと固めた方がいいと思います。でないとイー・モバイルやWiMAXとの圧倒的優位性が時間が経てば経つほど損なわれてしまうのでは。

ずいぶんずれましたが、一言で言えば「ブログをそこそこ書いてる自分としては、mixiは使いにくいけどTwitterは使いやすい」というお話でした。
同じくTwitterの使い道に悩んでいる人はとりあえずPicolog(ピコログ、ウェブログに対して)としてつぶやいてみるのもいいかもしれません。