寝ながらiPod touchでYouTubeをサーフしてたらこんなVideoを見つけた。
YouTube - Web 2.0 … The Machine is Us/ing Us URL
思わず深く考え込んでしまった。
このヴィディオの趣旨は、題の通り「Web 2.0」の成すことについて、アナログ(手書き)とディジタル(パソコン)の違いから説明しているものだ。非常に優れたヴィディオだと思う。たかだか4分半でアナログとディジタル、そしてHTMLにできること、XMLにできること、そして広がる2.0的ウェブサーヴィス。これらを説明してしまうとはびっくりだ。
でも僕が考え込んでしまったのはWeb 2.0ではなくて、一番最初のシーンである。
手書きは面倒なものだ。書き直すのも大変だし、きれいに消しきることもできない。言葉の順番が変だったらあとに続く言い回しに悩むことになるし、もし鉛筆じゃなくてボールペンで書いていたのなら悪夢である。(笑) ちなみに僕は修正液を使うくらいなら2本線で消す。修正液のあのいかにも「消しました感」がいやだ。あの無慈悲な白さに含まれる「間違えたのを見ないで。」という拒絶的思惑が頭にチラついて集中できない。思わず削って下のを見たくなる。(笑)
僕自身、いまやディジタルとは離れられない生活を送っている。病気をしない限り、パソコンを完全に離れる一日というのはなかなかない。寝込んだとしても手の届くところには携帯電話が(使いもしないのに)転がっている始末だ。(携帯はやめたいんだけど、けっこう本気で。)
だけど、である。それでも僕はこのヴィディオを見ているあいだ、冒頭の手書き文が頭を離れなかった。ディジタルにできることはたしかに手書き(アナログ)とは比べ物にならない。手書きで世界中の人に情報を発信しようだなんて理論的には可能だが(60億の人に手紙を書けばいいだけのことだ)、事実上は不可能である。ウェブだったらWWWにアップロードした瞬間に事実上「発信“済”」だ。ヴィディオの中であるように、一瞬で “Hello World!” である。
だけど僕は冒頭の手書きが好きだ。これだけ身の回りをディジタルに囲まれていながら、自分もそれを駆使しながら、アナログには絶対に敵わないと思っている。
どんなに壮大で、絢爛豪華なディジタルグラフィックアートを作り上げたとしても、2歳の子どもがスーパーマーケットのチラシの裏に描いた「ぐるぐるしたなにか」には“感動度”で絶対に敵わないと思っている。
小説家の村上春樹さんは、「僕は、友情にはセックスをからめない、仕事には義理をからめない、音楽にはコンピュータをからめない、という三大原則のもとに生きています。」と語っている。(iPodなどのディジタル音楽プレイヤーは使わない、という趣旨の文にて。)
僕なんか音楽にコンピュータをからめっぱなしである。iTunesには1万の曲が入っているし、CDも買ったらまずはリッピング。もしかしたらCDプレイヤーで聴いたことのないCDもあるかもしれない。HDDが飛ぶ心配がなくなったら、CDはなくしたいとさえ思っている。もう「CD涙目。」状態。
でも、もしかしたら僕のほかにもディジタルに生きていながら、ディジタルとアナログについて考え始めると複雑な気分になる人はいるのではないだろうか。
「なんか違うんだよな…」みたいな。絵画展には足を運んで感動しても、ディジタルグラフィックアート展は「う~ん」みたいな。「きれいだね」で終わってしまう。どうも「ディジタル万歳!」とは言い切れない空気が漂う。
なぜだろう?
ディジタル作品は完全なコピーが可能だから、「オリジナルな特別感」が希薄なのだろうか?
だったらひとつ作品を作った時点でプリントアウトし、データを完全に破棄したらその「希薄感」はなくなるだろうか? おそらくそんな簡単な話ではないはずだ。「オンリー・ワン」であるかどうかの問題ではない気がする。たぶん「それがディジタルであるから」という成り立ちそのものの問題なんだと思う。
正直、この問題はここ何年も(ということはつまりディジタルと密接に付き合うようになってからだ)考え続けている問題で、答えは出ていない。
だけど、冒頭のヴィディオを観ていてふと思った。
僕ら自身が、ディジタルな存在ではないからだ、と。
だから、どうも根本の部分でディジタルとは違和感を感じるのではないかと。
自分はビット情報のカタマリのウェブサイト制作業務に関わっていながら、手書きの手紙には絶対に敵わないということを常々感じている。iPodで1万曲を持ち歩いたとしても、夕暮れに帰り道の子どもが唄う童歌には敵うわけがないと知っている。
ときどき人の性格などで「好き嫌いがはっきりしている」という意味で「YesかNo」「0か1」というような言い方をする。
もちろんそうは言ってもその人の考え方、物事の捉え方がディジタルか、と言えばそんなことはない。
例えば僕が、「ありがとうございまいsた」と書いたら、「ん? ああ “s” が打ち遅れたのか」と気づくはずである。もし思考がディジタルだったら、「ありがとうございまいsた」という新語であると解釈するはずだ。
これは揚げ足取りではない。揚げ足取りというのは、それが間違い(打ち間違い)であることを知っているから遊べるのだ。
高校のとき、プログラム関係の授業で先生に質問したことがある。「なんでコンピュータは融通が利かないんですか?」と。HTMLやCSSのコードもそうだけどプログラムは1文字間違えればエラーになる。コロン(:)とセミコロン(;)間違えただけでエラーになる。仮にそれが50万文字中の1文字であっても。「これは間違いでしょ」と気づいて直しておいてくれるなんてことはない。(一方でそれを気づかせてくれるために補完機能が発達しているけれど。)
先生がそのとき言ったのは、「融通が利いたら逆に問題が出る」ということだった。融通が利かないからいいのだと。
ディジタルな世界が生まれて何年が経つのだろうか。今この文章を読んでいる人が目の前にしているインターネット上のウェブというもの(WWW)が生まれたのは1991年であり、「つい最近」のことだ。自分の人生で当時10歳のときになにがあったか、いくつかのエピソードが思い出せる。世界の歴史からみたら「ついさっき」である。
要するに、人間にとってディジタルな世界はまだまだなじみの浅いものだ。おそらく脳みその根本の部分ではディジタルを信用しきっていないのではないだろうか。信用とかそれよりまず「誰それ?」みたいな。「まず名を名乗れ、話はそれからだ」。
このさき50年経ったら今僕らが「ウェブ」と呼んでいるものはどうなっているのだろう。100年後は?
1950年代に、21世紀最初の10年がこうなると誰が予想できただろう。僕らが100年後のウェブ、ディジタルを予想するのと、150億年前の宇宙を想像するのとではどちらが難しいのだろうか。
このままディジタルとの付き合いがだんだんネイティヴなものになっていけば、いつか僕らの思考そのものまでディジタル化してしまうのだろうか。
ディジタルというのは詳しくない素人の僕が定義すると、「汎用性という形式(フォーマット)に置き換えた情報」、
アナログというのは「計測不可能な情報の集合体」みたいな感じになるかな。(ものすごい適当、今ぱっと思いついただけ。)
例えば手書き文字だったら、その角度・濃さ・大きさ、正確には計測なんてできない。どこまでも計測し続けられる情報の集合によって一文字ができる。だからまったく同じ文字を僕らが人生の中で書くことはできない。
これがディジタル化されたフォント(という形式)だったら、この色・この大きさと「指定」できる。
それではランダムなディジタル情報はアナログか? という問いが生まれる。難しい質問だ。
僕らがたとえば大切な人に手紙を書くとき、それが大切な人であればあるほど手書きで書こうと思うのではないだろうか。それはなぜだろう。
仮に、世界でたった一つのフォント、しかも一度限りの使用で自動消去されるフォントというのがあったとする。これはつまり手書きの文字と「オンリー・ワン」という観点からは同義だ。
それでもその大切な手紙を手書きかその限定フォントかで言ったら限定フォントに関わる特別な思惑があるときを別にして手書きで書くだろう。
こう考えるとさっきも言ったように、問題は「オンリー・ワン」であるかどうかではないようだ。だから「ランダムなディジタル情報はアナログか」、と問われれば僕は “No” の立場になると思う。
たぶんこれは想いの強さなんではないだろうか。すごくファンタスティックな表現だけど、結局のところ想いの強さを僕らは敏感に感じ取っているのだと思う。
ディジタルは想いが弱いのか? そういうわけではないはずだ。
だけど、僕らにとってはディジタルはまだDNA的に「よそ者」なので、ディジタルという媒体を通すときに脳の解釈時に若干ロスが生じるのはないか。想いの劣化というと言葉が悪いけれど、純度が少し薄まってしまうのかもしれない。「ディジタル」という薄い薄い膜が僕らとその想いのあいだに入ってしまう。
だけどいつもそうだとは限らなくて、仮にディジタルの膜を破るほどの想いがあれば、なんの問題もなく破り抜けてそのまま想いは飛んでいくはずだ。だからディジタルという成り立ちの作品でも素直にすごく感動することはある。
今だって初音ミクの歌に僕は感動しまくっている。 “Packaged” を真の意味で歌える「生身の」人間がどこの世界にいるというのか。
電子メールで、チャットで、命を助けてもらうことだってある。僕だってあった。ディジタルかどうかなんてなんの問題にもならなかった。僕は最大級の感謝をそのときの人に今も抱き続けている。(連絡は取れなくなったけれど、これはディジタルだってアナログだって同じだ。)
ヴィディオを観たところからずいぶん話が長くなったけれど、まとめとしてはやっぱり大切なのは想いであり、愛なのだと思う。結局のところそうなんじゃないか。Web2.0だろうがWeb50.0だろうが、「そこに愛はあるのか? それが問題だ。」
それにしてもヴィディオの最後、かっこいいですね。ぶるっちゃいました。ディジタルについて考えるときには、僕ら自身について考えることが必要だと僕も思う。
どう技術が進歩しようとも、ペンで書いた手紙で人を傷つけることもできるし、癒すこともできる。ブログで人を傷つけることもできるし、癒すこともできる。アナログかディジタルかはそのあとの問題なのだろう。そのことを念頭に入れている限り、僕らの思考がディジタルに乗っ取られることはないと思う。
「ありがとうございまいsた」と書いてあったらエラーなんて返さずに「ああ打ちそこなったんだな」と気づいて、気を利かせてあえて黙っていてくれる世の中であって欲しいと思う。100年後でも200年後でも。ほんとに。
Comments / TrackBacks (2)
:
>アナログとデジタルの違い
=興味深い内容ですね。確かにどんどんデジタル化してきて、人の生活や、何かが、大きく変わってしまったな、と思うことはあるけれど、ツールが変わっても、やはり、noriくんの言うように、「そこに愛はあるのか?」というところに辿り着くような気がします。じゃなければ、よりリアルな気持ちを表現しようとする、デコメールや絵文字なんかもバリエーションは増えないだろうし^^。
>(携帯はやめたいんだけど、けっこう本気で。)
=でも、iPhoneでたら、(とりあえず)買うでしょ・笑?
>> mikiちゃん
そうだね。それだけ「愛」とか「人の想い」っていうコアなところは普遍であり、不変なんだろうね。
> デコメールや絵文字
これもそうだね~。そういえば最近はあまり化けなくなったね。
以前はキャリア間の絵文字互換がなかったから、大切なキーワードのところだけ「〓」になっててびっくりしたよ。
「こんにちは〓〓 今度の〓どうしますか〓 〓とか〓とか。」みたいな。(笑)
「想いの痕跡」しか届かない切なさ!
> iPhone
問題はそこなんだよー!(笑)
出すのか出さないのかはっきりしてほしいよねっ><。