続・「自己」に寄り添うことが「らしさ」を再創造する

「自己」に寄り添うことが「らしさ」を再創造する の続き。
紹介した新聞のコラムの続きが掲載されていたので引き続いて。今回は主に男女関係について取り上げられていました。

日経新聞2010年7月13日「草食系男子へのまなざし」
日経新聞2010年7月13日「草食系男子へのまなざし」

「草食系男子のマインドの根本にあるのは、徹底した対等感覚である。」というのは草食かどうかは知りませんが確かにその通りですね。
誤解を恐れずに言ってしまえば、僕にとっては男女の違いなんてありません。基本的に「人」としか見ていない。だから逆に、「性差」をそのまま表に出したシステムには激怒に近い不快感を覚えます。女性専用車両とか映画館の女性優遇料金制度、飲食店の女性と記した少量メニューなどです。同じ仕組みが男性にも用意されていればいいだけの話なのですけどね。メニューなんて「女」など関係なしに「少量・ミニ・ライト」などと表現すればよい。

それぞれ個々人のセクシャリティはあくまでもセクシャリティに過ぎず、生活の中での付き合いに男女の差はない、というのがこの「徹底した対等感覚」の示すところでしょうか。
# まぁ実際の生活の中では異性の既婚者とは距離を置く、などの気は遣いますが。自分達だけの問題じゃないしね。

尤も、こういう考え方を「快く思わない」というのもよく分かります。当然そうだろうと思っているところで「は?」みたいな反応を示されたらそりゃ頭に来るでしょうね(苦笑)。
結局のところ、「人」である前に「男/女」であるか、「男/女」である前に「人」であるか、の違いに思えます。もちろん価値観の問題として。

プラトンの「饗宴」に出てくる、アリストパネスの話に人間の起源の物語があります。(Wikipedia
もともと人は今で言う2人で1人だった、というものです。頭が二つあり、腕が4本あり、といった。そして性は3種類あった。「男男」と「男女」と「女女」の3種類。でもある時神さまが怒って彼らを半分にしてしまった。その結果、人の性は2種類、「男」と「女」になったというものです。それで人は別れてしまった自分の片割れを探し求めて生きている、というお話。この話は村上春樹さんの「海辺のカフカ」にもちょっと出てきます。
たぶんこれで言えば僕は古代の「男女」に近い形なのでしょう。一連の記事の“草食系”と呼ばれる人々もおそらく自分自身にも相手に対しても「男」か「女」かなんて意識することは少ないのではないでしょうか。セクシャリティはあるけどそれはそれ、普段は関係ないっしょ、というような。

「新時代の恋愛のスタイル」、きっと「恋慕」より「共鳴」というものがキーになるのではないでしょうかね。
それに恋愛なんてしようと思ってすることじゃないですしね。なるようにしかならないんじゃないですか。(棒読み
でもひとつだけ思うのだけど、そんなに恋したいですか? たぶん逆に「なぜそんなに興味ないのか?」と思われるのだろうけど。「恋したい/したくない」ではないのです。「どうでもいい」のです。たとえで言えば173日後に雨が降って欲しいか?という問いに近い。どっちでもええがな!(笑)

「自己」に寄り添うことが「らしさ」を再創造する

この一年ほどでしょうか、「草食系男子」という言葉を目にするようになりました。個人的経験則として「~男子」「~女子」という造語にろくなものはないので調べもせず「ヴェジタリアンが流行ってるのか?まぁロハスとかも流行ってるしね」と思っていたのですがどうやら違うらしい。
先日読んだ雑誌、「Courrie Japon」8月号にこんな説明がありました。

オオタニ・タクヤは、米国の名門ビジネス・スクールでMBAを取得することに憧れている。だが彼は、来年東京の大学を卒業したら、米国ではなく日本の大学院に進学するつもりだ。
「僕は草食系なんです」とオオタニは物憂げに言う。“草食系”とは、ストレスを避け、リスクを管理し、庭先の草を食んで満足しているような人を指す流行の表現だ。

Courrie Japon8月号「世界が見たNIPPON」
ハーバード入学者がたった1人に…留学を目指さなくなった若者たち(ワシントン・ポスト)

なるほど…と思っていたら母から「あなたのことを思い出した」と新聞の切り抜き。そのものずばり“草食系”について書かれていてなかなか良いコラムだったので掲載。(同じ経緯のCreative Classについてはこちら

題は、「『男らしさ』からの解放」。

日経新聞2010年7月6日「『男らしさ』からの解放」
日経新聞2010年7月6日「『男らしさ』からの解放」

あ、これ俺だわ。というか時代がやっと自分に追いついてきたんだ(笑)。

冗談はさておき、僕が思うにこういう人、今でこそ「草食系男子」などと表現される人は昔もいたと思うのです。料理が好きで、手芸が好きで、花が好きで、身の回りのことは自分で楽しみながらやり…といった。
でも時代の価値観とかタイミングによって埋もれていた。こうして雑誌や新聞に取り上げられることもなく、ひとつの生き方として紹介されることもなく、せいぜいが「女々しい」とか「男なのに」とか言われるのが関の山。現に僕も言われてきました。
でも僕にもし「才能」と呼ばれるものがあったとしたら、それは「自分の価値観を曲げない」ことでしょうね。誰に何と言われようと、冷やかされようと、女子に馬鹿にされようと、自分の価値観は偽らなかった。だから正直、「草食系?ハァ?今更何言ってんの?キャベツでも食ってろ」という感じなのですが(笑)、こういうのがそこそこ広く受け入れられるようになって、そういう価値観を持つ若者がイレギュラーな人種として嘲笑の的にならないならいいことだと思います。そんなつまらない人の評価で自己否定の思いをする事なんてないですからね。

そしてもっと深く考えてみると、この時代にこういうのが出てきたのは必然だとも思います。現代は「世界が狭くなった」と表現されるように自分の影響範囲(授受問わず)は拡散の一途を辿っているわけですが、そうすると重力と同じようによほど「自己」をしっかり保っていないと膨張の力に負けてバラバラになってしまいます。
「自分の居場所がない」というのも「居場所がない」というより「自分がいない」という感覚がより近いのではないでしょうか? 自分が何者なのか分からないんですよね。もしその先まで行ってしまったらもうアウト・オブ・コントロール。悲劇を覚悟しないといけないかもしれません。僕もその先へ行ってしまったことのある人間なのでそこがどういう世界なのか僕なりに分かります。
自己を自覚する代わりに周りの流れに乗れればそれでもいいのですが、それにしては今の流れは命をも奪いかねない激流。それに身を委ねよというのも「冗談は小説だけにしてくれ」と言いたくもなるでしょう。流れに乗れなかったら「負け」とか勝手に判定される時代ですしね。(そもそも勝負などした覚えはないぞ!)

こう考えると、人間の本能として自己に向かうのは当然の流れに思います。自分を引き裂こうとする力に文字通り必死に抵抗する圧力が自分の奥深くへかかっていく。そうなれば「自分らしさとはなにか?」という問いが生まれるのも当たり前。以前と違う点があるとすれば、今やこの問いは人生の「オプション」ではないこと。生死に関わる回答必須な問いであることです。

つまり、この時代になって自己主張する人が増えたのではなく、逆だと思います。
時代が「自己」を引き出させたんです。「お前は誰だ?」と。「お前らしさとは何か?」と。世界は常に問いかけ続ける。生き残るためには僕らは答えなくてはならない。「自分はこうだ」と。
「自己」に寄り添い、「らしさ」を再創造する。何のために?と言われれば「生きるために」なんですね。

要するに僕が言いたいのは、“草食系”などと言われても、僕らが向かおうとしているその先、目標への執念。自分と向き合い、対話し、見極めようとする姿勢。それらはある意味ではとても攻撃的だということです。
「穏やか」?「目の前の状況に満足」?ふん、寝言は寝て言ってくれよ、ベイビー。

静かなる闘い。
願わくば同士のそれぞれに、決して見捨てなかったその人だけの悟りがこの先の未来のどこかで待っていてくれますように。そしていつか本当の穏やかな朝を迎えられますように。グッドラック!
…まったく楽じゃないよな!!(と同意を求める

生むべき宿命と、生まれるべき宿命

「あなたが生まれなければ、この世に生まれなかったものがある。」
「あなたが生まれなければ、
この世に生まれなかったものがある。」

昨年の9月に東横線車内で目に留まった広告。
いい広告だと思います。励みになる言葉ではないでしょうか。

ものづくりや芸術方面を生業にしていると、「好きなことを仕事にできていいですね」というような意味合いのことを言われることがあります。確かにそれも一理はあるので「そうですね」と返すことが多いのですが、しっかり考えると「そう簡単な話でもないんですけどね」というのが正直なところです。(笑)

厳密に言えば、「したいから」「好きだから」やっているわけではないのです。
「作らねばならない」「生み出さねばならない」、言ってみれば「責任」なのです。

背負ってしまった以上、生み出す使命がある。それを放棄しては自分が生きている申し開きができない。そういう意識でやっている人が多いのではないでしょうか。(実際にそういう話を誰かとすることはないので分かりませんが。。。)

生むべき宿命。
自分の中には生を受けた「生まれるべき宿命」の子がいる。
「作品」を「子どものよう」と表現しますが、そうではないです。「子ども」なんです。

それは確かに偽りなく「素晴らしいこと」であるのですが、「ものすごく、しんどい」ことでもあります。自分の身を削る以上の痛みを伴う人生。
経験者だから言えますが、実際に身を削るのはこれに比べれば痛みなどないようなものです。身を削る程度、テレビ見ながら耳かきしているようなものです。

だから僕が伝えたいのは、自分の中に「生むべき存在」があるなら、絶対に生んでください。自分も絶対に生み出します。(もっと深いレヴェルの話をすれば、全ての人に「生むべき存在」があるのですが。)
そこから逃げることは出来ません。背負ってしまったものなのです。「ああ、自分は“そう”なんだ…」と諦めてください。><

そんなことを思った車内広告でした。同じ広告を僕Verで作るとすれば、

「あなたはそれを、
生み出さねばならない。」

「ハァ?」とか言われそうですね。(笑)

Creative Class

ここのところ忙しかったのでたまってきた雑誌・新聞などの切り抜き記事をスキャニング。
母が「これってあなたのことじゃないの?」と教えてくれた記事を紹介。

外回りの営業を終え喫茶店で一息。そんなとき、新種の客が増えたのに気づいた人も多かろう。
くだけた服装だが学生ではなくノートパソコンで仕事に没頭。彼らのようなタイプを米国の社会学者がクリエーティブクラス(創造者階級)と名付けたのが四年前だ。

創造性を最大の武器にIT、デザイン、マーケティングなどの分野で働く人々を指す。クラスといっても収入や資産で区分するのではなく、価値観やライフスタイルで階層をくくった点が新しい。
仕事と余暇の境目を意識しない。職場の机よりカフェで気分良く仕事。ものづくりや知識の習得が好き。流行は追うのではなくつくり出す。年収はまちまちでも、そんな傾向は共通するそうだ。

こうした志向は若年層を中心に、業種を問わず広がっているのではないか。細かく管理の網をかける従来の発想では彼らの力は発揮されにくい。
働くことの意味や形は変わりつつある。

日本経済新聞 2006/11/05朝刊より(一部抜粋)

まさに。
もちろん世の中が全部クリエーティブクラスになる必要はないし、なったとしたらそれもまた悲劇。大切なのはそれぞれの歯車が気持ちよくお互いにハマってきれいに回っていくこと。
自分はこの記事で言う「クリエーティブクラス」の価値観の人間なので「今の時代に生まれてよかったなあ」としみじみ。(笑)

カフェでキーボードをぱたぱた。最高です。