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この切り返しは使える…!

日経新聞、2011年8月4日朝刊の「春秋」がかなり笑えたので掲載。

日経新聞、2011年8月4日朝刊の「春秋」

中学生の男の子が、夏休みの宿題になかなか手をつけない。部屋でゲームばかりしている。しびれを切らせて母親が問う。「いったい、いつになったらやめるの」。子供は涼しい顔だ。「一定のメドがついたらやめます」。実話である。
▼ただでさえ節電で暑い夏。母親はイライラが募るだろう。「一定のメドって何なの」と聞けば、「動きを注視していきます」。頭にきて「そんなだらしがないことでは駄目な大人になるよ!」としかると「私の価値なんかどうでもいいんです」と、しょげてみせる。機転の利く子供のようだから心配はなさそうだ。
▼震災の直後は、人々の言葉に重みがあった。小さな子供たちが「昨日は電車を一生懸命走らせてくれてありがとう」と言い、駅員は泣いた。つぶれた家から奇跡的に助け出された老人は「また再建しましょう」と笑顔で語った。大変だったことを聞かれたレスキュー隊の隊長は「それは隊員です」と声を震わせた。
▼思い出してほしい。つながらない電話をかけつづけ、絞り出す思いで伝えた「一言」が誰にもあったはずだ。生死が頭をよぎるとき、人は自然に言葉を大切にし、短い言葉にも愛や責任が宿る。わずか5ヵ月の間に、この国の言葉はどこへ行ってしまったのか。人の命がかかわる状況は、いまも変わってはいない。

日経新聞、2011年8月4日朝刊の「春秋」より。

久しぶりに声上げて大笑いしました。僕も使わせてもらいますわ(笑)。

昔は「記憶に御座いません」[#1]とかもありましたね。1976年だそうですが便利な返しなのでたまに使います。最近だと「想定外」[#2]でしょうか。
政治家や実業家にとどまらず、今や一般人もこのくらい図太くないと生き残れないですね。

続・「自己」に寄り添うことが「らしさ」を再創造する

「自己」に寄り添うことが「らしさ」を再創造する の続き。
紹介した新聞のコラムの続きが掲載されていたので引き続いて。今回は主に男女関係について取り上げられていました。

日経新聞2010年7月13日「草食系男子へのまなざし」
日経新聞2010年7月13日「草食系男子へのまなざし」

「草食系男子のマインドの根本にあるのは、徹底した対等感覚である。」というのは草食かどうかは知りませんが確かにその通りですね。
誤解を恐れずに言ってしまえば、僕にとっては男女の違いなんてありません。基本的に「人」としか見ていない。だから逆に、「性差」をそのまま表に出したシステムには激怒に近い不快感を覚えます。女性専用車両とか映画館の女性優遇料金制度、飲食店の女性と記した少量メニューなどです。同じ仕組みが男性にも用意されていればいいだけの話なのですけどね。メニューなんて「女」など関係なしに「少量・ミニ・ライト」などと表現すればよい。

それぞれ個々人のセクシャリティはあくまでもセクシャリティに過ぎず、生活の中での付き合いに男女の差はない、というのがこの「徹底した対等感覚」の示すところでしょうか。
# まぁ実際の生活の中では異性の既婚者とは距離を置く、などの気は遣いますが。自分達だけの問題じゃないしね。

尤も、こういう考え方を「快く思わない」というのもよく分かります。当然そうだろうと思っているところで「は?」みたいな反応を示されたらそりゃ頭に来るでしょうね(苦笑)。
結局のところ、「人」である前に「男/女」であるか、「男/女」である前に「人」であるか、の違いに思えます。もちろん価値観の問題として。

プラトンの「饗宴」に出てくる、アリストパネスの話に人間の起源の物語があります。(Wikipedia
もともと人は今で言う2人で1人だった、というものです。頭が二つあり、腕が4本あり、といった。そして性は3種類あった。「男男」と「男女」と「女女」の3種類。でもある時神さまが怒って彼らを半分にしてしまった。その結果、人の性は2種類、「男」と「女」になったというものです。それで人は別れてしまった自分の片割れを探し求めて生きている、というお話。この話は村上春樹さんの「海辺のカフカ」にもちょっと出てきます。
たぶんこれで言えば僕は古代の「男女」に近い形なのでしょう。一連の記事の“草食系”と呼ばれる人々もおそらく自分自身にも相手に対しても「男」か「女」かなんて意識することは少ないのではないでしょうか。セクシャリティはあるけどそれはそれ、普段は関係ないっしょ、というような。

「新時代の恋愛のスタイル」、きっと「恋慕」より「共鳴」というものがキーになるのではないでしょうかね。
それに恋愛なんてしようと思ってすることじゃないですしね。なるようにしかならないんじゃないですか。(棒読み
でもひとつだけ思うのだけど、そんなに恋したいですか? たぶん逆に「なぜそんなに興味ないのか?」と思われるのだろうけど。「恋したい/したくない」ではないのです。「どうでもいい」のです。たとえで言えば173日後に雨が降って欲しいか?という問いに近い。どっちでもええがな!(笑)

「自己」に寄り添うことが「らしさ」を再創造する

この一年ほどでしょうか、「草食系男子」という言葉を目にするようになりました。個人的経験則として「~男子」「~女子」という造語にろくなものはないので調べもせず「ヴェジタリアンが流行ってるのか?まぁロハスとかも流行ってるしね」と思っていたのですがどうやら違うらしい。
先日読んだ雑誌、「Courrie Japon」8月号にこんな説明がありました。

オオタニ・タクヤは、米国の名門ビジネス・スクールでMBAを取得することに憧れている。だが彼は、来年東京の大学を卒業したら、米国ではなく日本の大学院に進学するつもりだ。
「僕は草食系なんです」とオオタニは物憂げに言う。“草食系”とは、ストレスを避け、リスクを管理し、庭先の草を食んで満足しているような人を指す流行の表現だ。

Courrie Japon8月号「世界が見たNIPPON」
ハーバード入学者がたった1人に…留学を目指さなくなった若者たち(ワシントン・ポスト)

なるほど…と思っていたら母から「あなたのことを思い出した」と新聞の切り抜き。そのものずばり“草食系”について書かれていてなかなか良いコラムだったので掲載。(同じ経緯のCreative Classについてはこちら

題は、「『男らしさ』からの解放」。

日経新聞2010年7月6日「『男らしさ』からの解放」
日経新聞2010年7月6日「『男らしさ』からの解放」

あ、これ俺だわ。というか時代がやっと自分に追いついてきたんだ(笑)。

冗談はさておき、僕が思うにこういう人、今でこそ「草食系男子」などと表現される人は昔もいたと思うのです。料理が好きで、手芸が好きで、花が好きで、身の回りのことは自分で楽しみながらやり…といった。
でも時代の価値観とかタイミングによって埋もれていた。こうして雑誌や新聞に取り上げられることもなく、ひとつの生き方として紹介されることもなく、せいぜいが「女々しい」とか「男なのに」とか言われるのが関の山。現に僕も言われてきました。
でも僕にもし「才能」と呼ばれるものがあったとしたら、それは「自分の価値観を曲げない」ことでしょうね。誰に何と言われようと、冷やかされようと、女子に馬鹿にされようと、自分の価値観は偽らなかった。だから正直、「草食系?ハァ?今更何言ってんの?キャベツでも食ってろ」という感じなのですが(笑)、こういうのがそこそこ広く受け入れられるようになって、そういう価値観を持つ若者がイレギュラーな人種として嘲笑の的にならないならいいことだと思います。そんなつまらない人の評価で自己否定の思いをする事なんてないですからね。

そしてもっと深く考えてみると、この時代にこういうのが出てきたのは必然だとも思います。現代は「世界が狭くなった」と表現されるように自分の影響範囲(授受問わず)は拡散の一途を辿っているわけですが、そうすると重力と同じようによほど「自己」をしっかり保っていないと膨張の力に負けてバラバラになってしまいます。
「自分の居場所がない」というのも「居場所がない」というより「自分がいない」という感覚がより近いのではないでしょうか? 自分が何者なのか分からないんですよね。もしその先まで行ってしまったらもうアウト・オブ・コントロール。悲劇を覚悟しないといけないかもしれません。僕もその先へ行ってしまったことのある人間なのでそこがどういう世界なのか僕なりに分かります。
自己を自覚する代わりに周りの流れに乗れればそれでもいいのですが、それにしては今の流れは命をも奪いかねない激流。それに身を委ねよというのも「冗談は小説だけにしてくれ」と言いたくもなるでしょう。流れに乗れなかったら「負け」とか勝手に判定される時代ですしね。(そもそも勝負などした覚えはないぞ!)

こう考えると、人間の本能として自己に向かうのは当然の流れに思います。自分を引き裂こうとする力に文字通り必死に抵抗する圧力が自分の奥深くへかかっていく。そうなれば「自分らしさとはなにか?」という問いが生まれるのも当たり前。以前と違う点があるとすれば、今やこの問いは人生の「オプション」ではないこと。生死に関わる回答必須な問いであることです。

つまり、この時代になって自己主張する人が増えたのではなく、逆だと思います。
時代が「自己」を引き出させたんです。「お前は誰だ?」と。「お前らしさとは何か?」と。世界は常に問いかけ続ける。生き残るためには僕らは答えなくてはならない。「自分はこうだ」と。
「自己」に寄り添い、「らしさ」を再創造する。何のために?と言われれば「生きるために」なんですね。

要するに僕が言いたいのは、“草食系”などと言われても、僕らが向かおうとしているその先、目標への執念。自分と向き合い、対話し、見極めようとする姿勢。それらはある意味ではとても攻撃的だということです。
「穏やか」?「目の前の状況に満足」?ふん、寝言は寝て言ってくれよ、ベイビー。

静かなる闘い。
願わくば同士のそれぞれに、決して見捨てなかったその人だけの悟りがこの先の未来のどこかで待っていてくれますように。そしていつか本当の穏やかな朝を迎えられますように。グッドラック!
…まったく楽じゃないよな!!(と同意を求める

「鼻糞」の別名を考える

1月7日の夕暮れ
(※写真と本文はまったく関係ありません。)
1月7日の夕暮れ。GR Digital IIIにて撮影。自動的に吐き出すJPEGそのままですが、発色が独特。RAWファイルから近づけようとするもなかなか難しい色。

尾籠な話題であれですが、先日ふと「『鼻糞』と言うけれど、もっとましな呼び方はないのか」と思いました。それでさっそくWikipediaを見てみると、こんな一文が。

鼻糞(はなくそ) - Wikipedia

備考 [編集]
目糞は目やに、耳糞は耳垢と呼ぶのが正しいとされるが、鼻糞には別名がない。糞という言葉を使用することが児童への教育の上で問題があるため、鼻垢などを正式名称にするべきではないかとする意見がある。[要出典]

なるほど。そういう意見が実際にあるかどうかは置いておいて、自分自身のことを考えるとやはり「鼻糞」という言葉を口にするのは抵抗があります。大小便のことを言うにも「トイレ(お手洗い)行ってくる」としか普段表現しない人間です。そりゃ無理だって。

尤も悪態をつくときには「糞!(Shit!)」とは言わない代わりに、「脳味噌入ってないんじゃない?」とか「一回ちょっと死んだほうがいい」(←自分自身に対してよく遣う)とか言うので自分でもこのへんの道徳基準がよく分かりません。
「脳味噌入ってないんじゃない?/脳味噌入れ忘れてる」は我ながら気に入っている罵倒文句です。その絵を想像するとコミカルでいいじゃない?(笑) 怒りもそこそこ和らぎます。

話を戻して「鼻糞」ですが、それならば別称を考えればいいというわけでいくつか考えました。ちなみにWikipediaに書いてある「鼻垢」はちょっと違う気がします。「垢(Wikipedia)」というのは死んではがれ落ちた皮膚(角質)のことを一般に指すので、粘膜が固まった鼻糞の別称にはどうもしっくり来ません。まだ「鼻やに」のほうが近いと思います。

◆鼻くず
◆鼻かす
◆鼻ごみ

この中で一番言いやすい(語呂がいい)のは「鼻かす」でしょうね。「鼻かすがついてるよ」などといった日常的台詞でもしっくりきます。

というわけで、個人的にこれからは「鼻かす」と呼称することに決定!
「鼻紙」は「花紙」とも書きます。それに倣って「花かす」とするとなかなか品がありつつ儚げな様も表していていい感じです。

人生の言葉

人生の言葉
人生の言葉
ISBN: 978-4-284-80041-9
e-hon
bk1
HMV

本屋で見つけて少しパラパラとめくり、気に入ったので購入。1050円。
これが大変良かったです。編集も丁寧なので(余計なものが一切ない。「言葉」に集中できる。)おすすめです。
特に胸に残った言葉を紹介。

考えるままに生きるべきである。
さもないと、生きているままに考えることになる。

- ポール・ブールジェ(1852-1935, フランスの作家、批評家)

考えるがままに生きる、というのは無理のない生き方のはずなのに、なんだかとてつもなく難しいことのように思えます。

雨だれが石を穿(うが)つのは、激しく落ちるからではなく、何度も落ちるからだ。

- ルクレティウス(BC99?-BC55?, 古代ローマの詩人、哲学者)

冴えてる人だなあ、と思ったら紀元前の方ですか…。

悟りとは平気で死ぬことではない。
平気で生きていくことだ。

- 正岡子規(1867-1902, 明治の俳人、歌人)

深い。深すぎる。自分はまだ悟りには至っていないようです。

人生はクローズアップでみると悲劇だが、
ロングショットでみると喜劇だ。

- チャールズ・チャップリン(1889-1977, イギリスの映画俳優)

この人生も、世界の人生も、喜劇にみえるときがくるといい。

一夜にして成功を収めるためには20年かかる。

- エディー・カンター(1882-1964, アメリカのコメディアン、歌手)

にやり、としてしまいました。

人間は醜い、だが人生は美しい。

- ロートレック(1864-1901, フランスの画家)

おそらくは、「人生は美しい」に至るまでにものすごく長い道のりが必要だったのではないか、と思いました。

光は暗闇を追い払う。光を見て、その美しさについて考えよ。一度目を閉じ、再び見える光は最初のものとは違う。
前に見た光はすでにそこにはない。

- レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519, イタリアの画家、彫刻家、建築家)

僕が不思議なのは、こういう感覚が500年の時を経ても変わってない、ということです。失礼ですが「レオ、なんで知ってるの?」という。
一度直接話をしてみたかった。たぶん、なんの説明もいらずに、なんの例えもいらずに、話ができるだろうと思う。「僕思うんですけど、闇の真の姿って光ですよね」「そうそう、闇という光ね」みたいな。
…同時代のやつらがうらやましい。

不遇はナイフのようなものだ。
刃をつかめば手を切るが、柄をつかめば役に立つ。

- ハーマン・メルヴィル(1819-1891, アメリカの作家)

ううむ、素晴らしい。

古いものを喜んではならない。
また、新しいものに魅惑されてはならない。

- ブッダ(生没年不詳, 仏教の開祖)

テクノロジーの発達という進捗とその弊害に悩む現代にこの言葉は鋭く響きますね。「なるほど」と思わずつぶやいてしまいました。

腹が立ったら、何か言ったり、したりする前に十まで数えよ。それでも怒りがおさまらなかったら百まで数えよ。
それでもだめなら千まで数えよ。

- トーマス・ジェファーソン(1743-1826, アメリカの政治家)

問題は、「怒りがおさまるまで数えられるか」ではなく、「数えようと思ったときにはすでに何か言っていた(していた)」ということだと思うのです。そして、「そのときすでに」という無自覚の行動こそ、人間の弱みだと思うのです。僕はこれを完全に、完・全・に・統率したい。その意味で「人間を超えた存在」になりたいと常々思っています。これは真面目な話、自分の人生で超える「べき」壁の一つだと捉えています。これを超えることができなければ、僕が生きた意味の一つはなくなることになるし、人の親になる資格もありません。

人間はみな、自分の見たいものしか見ようとしない。

- カエサル(BC100?-BC44, 古代ローマの政治家、軍人)

今でもそうですよ、と伝えたらカエサルさんは「マジかよ…」と言うのでしょうか。「やっぱり…」と言うのでしょうか。そこに興味がありますが、僕はたぶん後者だと思います。そのあたりの本質は見抜いている人でしょうね。

壁が横に倒れると、それは橋になる。

- アンジェラ・デービス『アンジェラ・デービス自伝』(1944-, アメリカの政治家)

なるほど。高ければ高いほど、遠くへ行けると。

つまり、これが死というものである。
ところで……

- 死の間際の言葉、カーライル(1795-1881, イギリスの評論家、思想家)

すげえ…。続きを聞きたい…。

今日が人生最後の日だとしても、
今日する予定のことをしたいと思うか?
「毎朝自問自答している。ノーの日が続くなら
人生の軌道修正をしなければならない」

- スティーブ・ジョブズ(1955-, アメリカの実業家、アップルCEO)

スティーブかっこよすぎ。

最初の一歩を踏み出しなさい。
階段全体を見る必要はない。
ただ、最初の一段を上りなさい。

- マーティン・ルーサー・キングJr(1929-1968, アメリカの牧師、活動家)

嫌でも目に入ってくる「階段全体」を無視することこそが一番難しいのではないでしょうか。おそらくは一段を上ることよりも。

私たちの問題は人間が生み出したもの。
従って、人間により解決できるのです。
人間社会の中で起こる問題の中で、人間を超えているものはありません。

- ジョン・F・ケネディ(1917-1963, 米国第35代大統領)

なんだかんだ言ったところで、人間のせいですものね。もっと踏み込めば、「自分のせい」。

真の道は一本の綱の上に通じている。その綱は空中に張られているのではなく、地面のすぐ上に張られている。
それは渡って歩くよりは、つまずかせるためのものであるようだ。

- フランツ・カフカ『罪・苦悩・希望・真実についての考察』(1883-1924, チェコの作家)

具体的に考えてみると、にやりとしてしまう味わい深い言葉です。

誰にも見られていないように踊れ。誰にも聞かれていないように歌え。恋をするときは、今まで傷ついたことなどないかのように振舞え。
そして、この世が天国であるかのように生きよ。

- マーク・トゥエイン(1835-1910, アメリカの作家)

何のために? おそらくは自由を得るために。

マイナスをプラスに、不幸を幸せに、涙を笑顔に。まかせておいてください。

- 坂本九(1941-1985, 昭和の歌手)

九さんになら「まかせた!」と言えるところですが、それとは別に「まかせる」ということについてそれはいいものかどうかふと考えてしまいます。自分の歴史上、「まかせた」と心から言ったことはないような気がする。下手したら口にしたことすらないかも…。九さん自身はどうだったんでしょうね。まかせられる人いたのかな。

生きるために食べろ、食べるために生きるな。

- ベンジャミン・フランクリン『プア・リチャードの暦』(1706-1790, アメリカの政治家、科学者)

この本で一番胸に突き刺さった言葉。
自分には「生きるために食べろ」の一言が大きかったです。「生きるために食べろ」ってあなた、「生きろ」っていうのは前提ですか!?みたいな…。生きるのは前提ですか。そうですか…。ちょっと衝撃的でした。
ところで今の時代、「生きるために」食べている人ってどのくらいいるんだろう。予想よりはずっと多いのかもしれない。